浅川日記?ボジョルノ?ニーノ(1月13日:10年考え続けるテーマ編)

公開日 2012年1月13日

ボンジョ~ルノ

月曜日のヒアリング用に作ってた質問用紙のデータがぶっ飛んだ。英訳に3時間以上かけたのにパーになった。何とも言えない気分である。

歌う。

なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ

なるべくいっぱい集めよう そんな気持ちわかるでしょう

答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方 (情熱の薔薇 - THE BLUE HEARTS)

さてテーマである10年何を考え続けましょうか?この言葉はある先生からいただいた言葉。10年間ひとつのことをずーっと考え続ければ少しはわかる。そして自分が分かっているつもりになっていたことをはずかしく感じるようになると。まだ僕は自分の理論を作って分かった気にもなっていない。ものごとの本質を分かるまで、もっともっと考え続けようと思う。

今日はひとりでワインを1本ほど飲んじゃったので、せっかくなので、酔っていないと書けないようなことを、テンションと勢いで書きますね。

もちろんエロいこと書くわけじゃないですよ。

期待した人残念でしたー。

最近は「よい」と「わるい」の線引きについて考えている。突然なんだ!? と思った人が多いとは思うのですが???僕の今の研究テーマが「出店行動をとるインセンティブについて」。なので、興味は「人」であり「思い」という、ものすごく抽象的なものです。

僕はある行動を行う際の最終的な選択は意思決定として行われていると考えており、そこに何らかの意思決定を行うことに際してのインセンティブなるものがあると思うんです。プラスのインセンティブもあればマイナスのインセンティブもあると考えています。この和(?)が究極的にはYes or Noの意思決定をするものだと考えています。

例。

原発は今の日本でアンケートを取れば「廃止」と答える人が多いでしょうか?

大変悲惨な事故だったと思う。多くの人がふるさとを失った。危険と隣り合わせで生活をしている人もいるのかもしれない。確かに人が制御できないものは作るべきではなかったのかもしれない。ある人はリスクとリターンの関係で語る。医学的知見から発言する人もいる。ある人は誰かを責めることをする。ある人は歌を歌って原発反対を訴える。

僕はすべていいことだと思うし、あり得る行動だと思う。

ここであえて屁理屈を書いてみる。

たとえば、危険だから制御できないから作るべきではないという意見。よくわかる。でもある意味、人々が日々使っている車の方が危険なものではないかということだ。もし車が危険でなく、制御できているものだったなら、188bet体育_188bet赌场-【平台官网】で悲惨な交通事故の188bet体育_188bet赌场-【平台官网】を聞かなければならないことにはならないだろう。

イタリアで2度交通事故を見た。

車も危険なのになぜ人々は原発には反対、車反対にはならないのだろうか?もはや車の便利さは人の命の危険というリスクを超えてしまっているのだろうか?

誰もが知っているビートルズのジョンレノン。歌で人々を魅了し、平和を歌い、世界を変えたであろう彼は凶弾に倒れている。あのジョンという人間はある人からすれば、音楽で巨万の富を築きながら平和を歌っている偽善者に見えてしまったわけである。

何が「よく」てなにが「わるい」のか?だんだん分からなくなってくる。たとえば昨日、交通事故で最愛の息子を亡くした母親にとっては車が憎いと思う。昨日免許を取った人にとっては、車が何か夢の乗り物のように感じても。

つまり、なにを言いたいかというと。特に何を言いたいわけでもないのだが???

ワードの資料がぶっ飛んだので、僕も話をぶっ飛ばすことにする。

僕は日曜市の出店者がなぜ出店しているのか知りたい。これは日曜市の出店者の思いを知りたいわけであり、おっきな世の中からすれば本当に小さなことである。しかしこれを知るのにどれだけ苦労しているか。

すべてのことはある時間軸上を流れており、その中で僕の扱いたいモティベーションは常に波のように揺れ動いている、と思う。

これを知るために、ある時間軸上の1点を切り取る形で、ヒアリング調査とアンケート調査を行った。集計を行いSPSSというソフトウェアを使い、いくつかの分析をかけ、結果の中で自分の理論を証明できるものを恣意的に選択しているわけである。誰が作ったともわからん分析ツールを使い自分の仮説にある意味屁理屈を塗りつけて、さも事実のように見せているとも言えなくはない。

そしてさも、日曜市の出店者はこうだったんです。と言ってるわけです。

研究をしたい、ものごとの本質に迫りたいなら、もっともっと謙虚にならなくてはならないと思った。本質にはまだまだ遠い。まあ楽しいんですけどね。考えるの。

何を言いたかったかというと何事に関しても、結局はある時間軸上の1点だと思う。どんな行動も思いも、そこで「いい」と考えたか「わるい」と考えたかということにすぎないんじゃないかということ。そこの決定にもっとも影響を与えるのがインセンティブだと思う。というか僕の考えるインセンティブってそういうものでありたいなと。

だから文化も住環境もコミュニティも歴史も何もかもがその人の意思決定に作用する。と少なくとも僕は考えている。まさに全部が有機体であり、作用し合っている。

社会現象を含め、すべては一回性の出来事である。だからって社会科学が無意味だとは全く思わない。答えはきっと奥の方 心のずっと奥の方。

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